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第1000話

Author: 宮サトリ
思いもよらなかった。澪音は自分のそばに来てからずっと親身になって尽くしてくれていた。

「そうだ、霧島さん。この二日きちんと食事をしていること、まだ黒田さんには伝えていません。暫く心配させたいのです」

まるで弥生の考えを読んだように、澪音は言葉を添えた。

弥生は唇を弓なりにして笑みを浮かべた。

「ありがとう」

澪音は今度こそ見間違いではなかった。霧島さんは本当に笑ったのだ。彼女も思わず笑顔になり、これなら霧島さんもきっと大丈夫だと胸をなで下ろした。

「霧島さん、遠慮なさらないでください。私がこれからもずっとお世話します。毎日ずっと」

毎日......

弥生は伏し目になり、黙り込んだ。もし可能なら、一日でも早くここを去りたい。

ここを出れば、もう二度とこれらの人と顔を合わせることもないだろう。

だから彼女は返事をしなかったが、澪音は気にせずおしゃべりを続けた。

「霧島さん、ここ数日食べてくださらなかったとき、本当にすごく心配しましたよ」

その言葉に、弥生は答えられなかった。

もし友作が子どものことを教えてくれなかったら、自分は本当にあのまま食べずに死んでしまっていたかもしれない。そのとき、二人の子どもはどうなっていたのだろう。

考えるだけで背筋が寒くなる。

人間が生きる意志を失ったときの恐ろしさを思い知った。

しばし黙した後、弥生は唇を噛み、静かに尋ねた。

「彼ら、どのくらい話しているの?あとで......弘次に伝えてほしい。私が会いたいって」

その言葉に、澪音は驚いた。

「霧島さん、ようやく弘次さんに会う気になったんですか?これまではいつも拒んでいたのに」

そう。でも、ここから出たいのなら、避けてばかりでは前に進めない。

澪音は部屋を出て、二人が話を終えるのを待ちながら扉の前に立ち続けた。

いくら待っても弘次が出てこない。

「どうしてこんなに長いのかしら......」

彼女の胸に不安が募った。

とうとう我慢できず、書斎の扉をノックした。

一度目は反応がなかった。澪音はもう一度ノックした。

「誰だ?」

しばらくして、冷たい声が返ってきた。

氷のような声音に澪音は身を震わせたが、勇気を振り絞った。

「......私です」

中は一瞬静まり返り、やがて扉が開いた。

現れた弘次に、澪音は「霧島さんが会いたいとおっし
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